距離が教える思い 4 手塚
キミが見せた、驚きと躊躇い。言おうとしていた言葉。
その全ての意味を悟れるほどに、キミの傍らにずっといられたならよかったのに。
そうすれば、キミを傷付けずに導く術を探せたのだから。
昼休みも終わる頃に、スピーカーがボクの名前を呼んだ。
職員室で受けた電話。その内容は俄かには信じられないようなものだった。
役に立たなかったボクへと、労いの言葉を掛ける竜崎先生の声は、複雑な感情に揺れている。ボクと同様、自分の力無さを悔やむ思いと微かな安堵に。
掌中の珠から手を離す日が、先送りになったことへの卑怯な喜び。それでも、ボクはそれを押し込める。
一度、深く息を吸い込み、受話器を持ち直す。
ボクに取っての一番は決まっていた。だから……
「竜崎先生、二つ、頼みたいことがあるんですが……」
通話口に向かって音にした言葉に、胸が激しく痛みを訴えたけれど。
竜崎先生に頼んだ一つ目はすぐに果たされた。
だが、もう一つは終業までの長く短い時間を待たなければならなかった。
誰もいない部室の中に、いまだに緊張した面持ちで手塚君が立っている。
ここに入学するつもりでいるのなら、来年度からはココをベースにするというのに。
菊丸君なら好奇心で、乾君なら探究心で見回すだろう。
性格は簡単に変わるものではないと、手塚君の態度が言っていた。
(ソレでも、キミは変わりつつあるんですね)
手塚君が決めた道が、ボクの望みと違っていたならば、それを受け入れるべきなのかもしれない。でも、それがボクのせいだというならば、ボクはキミのために受け入れることを拒否しよう。
それが、どれほど手塚君を傷付けたとしても。今を傷付けることで、未来を選べるのならば。
『どうして、留学の手続きをしなかったんですか?今日が締め切りの日だったでしょう?』
『……………………俺は、…………貴方とのテニスを選びました』
放課後に高等部の部室へ来て欲しいと、手塚君への伝言を竜崎先生に頼み、現れた手塚君へと開口一番に聞いた質問への答え。
躊躇いに何度も息を飲み込みながら、漸く口にした手塚君の理由。
ボクから目を逸らすことなく告げられた言葉に、激しいまでの喜びがあった。それでも、その感情を凌駕したのは、ボクのエゴ。
ボクからの言葉を待つ手塚君に向かって、ゆっくりと距離を詰めていく。
流れていた、長い沈黙の時間を破るために。
「手塚君、ちょっと目をつぶって貰えますか?」
少し上を向いてだともっといいですねと、続けながら内心とは裏腹の緩んだ笑みを浮かべる。
「……はい」
数秒ほど訝しげに眉を寄せてから、頷きと共に返事をした手塚君は、ゆっくりと瞼を降ろした。
心持ち上げた顎に指を当てると、ビクッと小さく震える。
その指で更に顔を仰のかせ、もう一方の手を後頭部へと回した。
薄く開いた唇へとボクのそれを合わせる。
瞬間に逃げを打つ体を、柔らかな咥内に差し込んだ舌が押さえた。
見目からは想像もつかない強靭な力を秘めている体が、痛々しいほどに強張っている。
触れ合う胸に感じていた硬さが、縮こまる舌を解していくうちに柔らかな重さへと変わっていく。
だが、抜けた力と委ねる心がイコールとは限らない。
閉ざしていた目を開けば、変わらない意志の光。
「止めてください!」
膝を折らせ、体を横たわらせた瞬間に響いた声。
同時に、頬を微かな痛みが走る。
体を倒されるまでの一瞬の躊躇の後に、ボクを退けようとしたのだろう手塚君の右手の指先が、チッと音を立て頬を掠めていった。
ヒリヒリとした痛みは爪が当たったのだろう。
再び流れた沈黙を、ボクの溜息が破る。
苦笑に唇を歪めながら伸ばした腕は、もう払われることはなかった。
見開いた目が驚愕をあらわしていても、体を揺らすことすらしなかった。
視線の先には、ボクの頬がある。
今の状況をわかっているだろうに、それでも掠り傷程度を負わせることさえも躊躇っている。そして、自らの動きを否定してしまう。
これほどボクを傷付けることを恐れているのに、キミの取った道がボクを抉っていることには気付けない。
(キミのキモチを利用して、キミを傷付けるボクを、どうかキミが許しませんように)
再び寄せていった唇に、微かに当たった歯は力を入れてはくれない。
そんな人だとは思わなかったとでも言って、ボクから逃げてくれるのはいつだろう。
この行為を簡単に止められる術を持つということに、手塚君はまだ気付けずにいた。
ボクの下で、手塚君の唇が小さく二音を紡ぐ。
あまりに小さな呟きは耳まで聞こえず、その姿にただ艶かしさだけを添える。
だが、見開いたままの目と震わせた体が、その言葉を告げてはいた。
ボクへの『何故』を全身で問い掛ける手塚君には、言葉を尽くしてもその答えをわからせることはできないのだろう。
ただ、キミが眩し過ぎた。その姿を映すボクの思いは、複雑に枝を分けていく。
まっすぐにボクを見据えてくれるキミに、応えることはできない。それが、キミの道を歪ませるから。
テニスよりボクを選んでしまったキミが持っている、その稀有なまでのテニスの才に嫉妬する。そして、それが悔やませる。出会うべきですら、なかったと。
それなのに、ボクは喜ぶ。キミのことを愛しているから。
ボクは悦びと共にキミを陵辱する。キミの正しい未来≠ヨと進ませたいとのエゴで。
情欲と、テニスをするキミへの渇望。そんなボクの欲を乗せながら、キミの体を貪る理由を押し付ける。
手塚君の未来のためにと。
ぐったりと意識を飛ばした手塚君に、ボクの欲望を深く押し込む。
小さく腰を震わせながら、熱く白に濡らさせた中へと何度目かの精を吐き出した。
眩しいほどの光の中を歩く手塚君を見ていたい。
ボクが無理やり染み込ませた闇の一滴を纏いながら、それでもまっすぐに歩いていくだろうから。
ボクは離れてしまったキミを遠くで見ていましょう。テレビの中のキミを、世界の片隅で。
眩しさに目を細めながら。
恋しさに胸を締め付けられながら。
愛おしさに絶望の意味を知りながら。
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