距離が教える思い 5 手塚
目を覚ました俺の前には、既に大和部長はいなかった。
軋むように痛む体を起こせば、尻に鋭い痛みが走り、動きを止められる。眉を寄せ、もう一度ゆっくりと身を沈めていく。
俺の下には、あの時にはなかったはずの布。制服の上着とシャツに、数枚のタオル。かき集めたであろうそれらに気付くと共に、体に纏っているのが倦怠感だけではないと知る。
「大和、部長……」
肌には制服の布地のさらりとした感触がある。汗と精液と唾液とに塗れていた体を拭ったのは彼だろう。
視線を彷徨わせると、敷いているタオルの端にその名残を見つけた。
「……何故っ!…………何故、貴方が……」
思わず浮いた涙が、叫んだ拍子に頬を伝う。体に走る痛みより、強い痛みが胸を抉っていく。
この行為の真似事を、曖昧な夢に見ていた。口付けと、触れ合う肌とを。募らせた思いのままに。
だが、それはこんな形ではなかった。求め合う思いの末であり、決して引き裂くような行為ではなかった。
背に感じる、着ていたシャツの皺。背で溜まるそれは、後始末がどれほど大変だったかを語る。汗をかきながら、器用に着せていく姿を思い浮かべれば、涙が更に流れた。
理由があると確信している。それが、俺には理解できないとも知っている。
それでも、口に出してもらえなければ、正解に近付くこともできない。
外の暗さと、室内に篭る熱に窓が曇っている。
部屋を暖めるのは、なかったはずの電気ストーブ。これも後から用意してくれたのだろう。
右手で肩を触っても、冷えはなかった。
「貴方の口から……、理由を聞かせてください」
たとえ、俺にはわからなくても。貴方が言うならば、頷きと肯定を返すだろう。
再び体を起こし、深く息を吐き出す。
顔を上げ、前へと向けた視線の先に、一枚の紙があった。
留学の手続きのための用紙。そこには必要事項が大和部長の筆跡で記入されていた。ただ一箇所、俺の名前を除いて。
「俺が、貴方を憎むとでも思ったのですか?恨むとでも思ったのですか?
……離れたいと望むと、思うのですか?」
ただ、選んだだけだった。貴方と共に打ち合える、この地を。
これ以外を選べなかった。
「テニスは、楽しいです。練習も、そのための辛さも。
ただ、貴方のいないテニスだけは、楽しいと言える自信がありません」
たかが数年間の別離。他人事ならば、今日までの二年間を思えば長い時間ではないと言えるかもしれない。
だが、俺は自分を知っている。その数年間で身につけるだろう力に、振り向く術を失うとわかっている。この国へは帰らず、貴方へも帰れず、テニスだけの世界へと飛び込むことを。
捨て切れない思いを抱えたままでも、楽しさも喜びも失ったままでも、俺は突き進むだろう。
それを、俺は選べない。
何があろうともテニスを求める思いを失うことだけはないと断言できる。だが、求めるだけだ。俺はテニスを好きな俺≠ナありたい。
俺は今、貴方が示す道に、初めて逆らおう。
手にした紙を二つに引き裂いていく。それを重ねて、もう一度。何度か繰り返せば、そこに大和部長の手跡を見ることはできなくなった。
「楽しさと、喜びを得られるテニスを続けたいと思っています。
たとえ留学することで強くなれるとしても、貴方がいなければそれらを得ることはできません」
次ぐ日、早朝に待ち伏せした大和部長の自宅の前で、そう告げた。
鏡の前で練習してきた笑顔を頬に乗せながら。
驚きの表情で口を開けた大和部長が、何も話さないままで顔を歪ませる。
不意に体を包んだ温もりと、徐々に濡れていく肩に、空を映していた俺の視界も滲んだ。
どれほどの長い時間を共にしても、貴方との間にある距離を埋めることはできないのかもしれない。
俺には貴方の思いを感じ取ることができない。
貴方は俺の道を先回りして示してしまう。
俺がそれに気付くことができるのは、いつでも後になってからだ。
それでも、テニスを求めずにはいられないように、貴方を求めずにはいられない。
これから先も、テニスを愛するように、貴方を愛するだろう。
たとえ、どれほど互いの理解が遠いとしても。
だからこそ、近付くことを望み続けられるのだから。
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