距離が教える思い 3 手塚
ネット越しに鼓動を感じながら、既にボクの呼吸は速くなっていた。
ボクの全力が、手塚君にとっては軽い打ち合いでしかないと、流れない汗が教えている。
キレイなフォームに、滑るようなフットワーク。理想が形になったようなテニス。
ボールを追う鋭い視線に惹きつけられながら、振り切るラケットの風を感じている。
テニスは楽しい。打ち合うことは勿論、強くなるための苦しさも喜びになる。ただ、ボクの力では手塚君の足を止めさせることすらできないのが悔しい。
何度か見に行った試合の中で知った、手塚ゾーン。ソレを引き出すだけの力すら、今のボクにはない。
それでも、テニスは楽しい。この悔しさも、ボクを強くしてくれるモノ。
手塚君が打つ。先に反応した脳が、一瞬で軌道を描く。ライン際へと、鋭く突き刺さるようなスマッシュだ。だが、現実の映像はシミュレートを追い越していく。
体が動く。走り出した足に、伸びた腕。ボールは現実の方が早く到達した。それはラケットのフレームを掠めて外へと飛び出していった。
描いた通りの軌道だった証拠が、目の前にある。訂正するなら、ライン際ではなく、ライン上だったという数ミリのズレだけ。そして、予想した速さを現実が遥かに上回っただけ。
「そろそろ終わりにしましょうか。このまま続けると遅刻しちゃいますしね」
小さく頷きながら「はい」と返す手塚君の呼吸はいつもより速く、頬には僅かな赤味が差していた。
手塚ゾーンを見ることさえもできなかったが、手塚君の左腕相手にコレなら上出来だった。
思わず浮かべた笑顔は、一点の曇りもないボクの心を映しているだろう。
胸には熱が灯る。悔しさを超えた喜びの決意が揺らぐこともない。
練習を重ねよう。いつか並び、追い越せるように。
手塚君への思いに恥じないだけの力を身につける過程は、激しく心を高揚させてくれるだろう。
それは、立場は違えど手塚君も同じはずだった。理想のテニスを追い続けることの喜びは、どれほどの苦痛も凌駕する。
だからこそ、今は手塚君の背を押さなければならない。
あの時から徐々に築き上げてきた彼等との絆を、痛いほどに理解している。
あまり動かない表情と、冷静であれと戒める強さが、その過程を更に過酷なものにしてきただろうことも想像に難くない。
その彼等への思いを、甘さと呼び選択を許さないのは傲慢だろう。
手塚君の情深さを、嬉しく思うボクの方が余程甘い。
だが、今は選択肢の片方が大きすぎる。テニスプレイヤーとしての未来という、人生の選択肢なのだから。
ボクは、キミに飛び立って欲しい。それがボクの願い。
キミと離れることの辛さを、この二年間で十分に理解していたとしても。
「手塚君。テニスは楽しいですか?」
笑顔を消さず、ボクにとって最も尊ぶ根幹の問いを発した。だが、僅かに震える指先が、その心境を表してしまっている。
手塚君が、この質問にイエスと即答できなくなることが怖い。それはキミが変わるということ。
変わらない手塚君を求めるのはボクの希望。そのために無理強いするべきことではないともわかっている。それでも、ボクはその背を押す。
「はい」
一瞬の間は、何を今さらなことを聞くのかとの疑問だろう。僅かに寄せた眉がそれを教えている。解かれた眉間の皺と同時に返った声は、自信に満ち溢れていた。
「なら、キミは迷ってはいないんですよ。ただ、自分の思うままに選べばいいんです」
明確に言葉にはしなくても伝わるものはあると、曖昧な言葉で道を指し示す。
手塚君の顔には、理解ゆえの小さな驚きの証が浮かんでいた。僅かに上げた眉と、ボクを見返した瞳。その目を伏せるのと同時に、何かを言うために開いたのだろう唇が、何も音を発さずに閉ざされた。
手塚君は何を言いたいのだろう。俯きに隠された目は、何を映したのか。
ボクにはその片鱗も掴めず、明快な答えが返らないという事実に、一抹の不安が過ぎる。
「さて、本当に遅刻しそうです。急ぎましょうか」
その不安を消し去るように、あえて高く声を張る。
肩を軽く叩き、荷物の方へと促すと、今までで一番小さな「はい」が返る。
それに気付かない振りをした心が、何事もなかったかのように荷物を右手に取らせた。
手塚君なら、選ぶ道を間違えるはずがないのだから。
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