距離が教える思い 1 手塚
泥の中でもがいていたかのような疲労感。既に反射でしか動けない体。
それでも、温もりを求めて僅かに腕が伸びる。
「……くッ、ぁ…………ふ……」
何故、こんなことになったのだろう。
ただ、俺にとっての唯一を選んだだけだったはずなのに。
「…あ、……もッ…、止め…………」
感覚すらも鈍くなっていく体の中で、蠢き続けていたものが静止するのがわかった。
俺を内から侵す白いぬめりが、また増えた。
この先の道を選択する日が、近付いていることはわかっていた。
眼前に据えられた二つの道。
一つは、海外への留学。テニスが中心となる生活を約束されている。
この道を選べば、只管に自身を見つめ、鍛えることができるだろう。プロの道を進むと決意しているならば、大海に飛び込む時期は早い方がいい。スポーツ選手としての命は決して長いものではないのだから。
もう一つは、高等部への進学。学業との両立を余儀なくされ、一点のみを追う事は許されない。
だが、この道を進むならば、仲間と勝利の喜びを分かち合えるだろう。それは学生時代という季節にしか得られない煌きの瞬間だ。
それ以外の道は、既に消し去って久しい。
どちらの道を選ぶのかは、まだ決めてはいない。それはある一つの要因を意識して避けている所為だと知っている。
真に俺の中で天秤にかけているのは、テニスのみを見つめられる環境と、胸内で囁く欲望だった。
後者は朝に夕にと穢れた熱で苛み、選択の道を霞ませている。
窓からの明けを映し始めた自室のベッドで、天井を睨みながら何度も二つの道の行く末を仮想している。
今日は、海外留学への手続きの最終締め切りの日だった。
朝日の差し込んだ部屋の中で体を起こす。
一睡もできずに横たえていただけの体が、常よりも重さを感じさせる。
軽く頭を振りながらベッドから降り、緩慢な動作で身支度を始めた。
行きたくないなどという怠惰な感情に支配された体が、家を出るまでに倍の時間を掛けさせていた。
部活も引退を迎え、朝に誰かと打ち合える機会は殆どなくなった。
俺や大石が顔を出せば、現部長が萎縮してしまうだろう。今がこれからの部を纏めるのに大切な時期だと知っている。他の部員が新しい部長に慣れるまでは、遠慮するのが筋だった。
「軽く打ち合う相手だけでも欲しいとは思うが……」
高架下のコート脇にある壁から返ったボールを緩く打ちながらも愚痴が零れる。
「その相手、ボクではどうでしょう?」
再び手元へ戻るボールへと腕を振り被った瞬間に懐かしい声が響いた。
何度も胸内で繰り返した声。会いたいと望みながらも、今の状況で会いたくはない人の、変わらない穏やかな声。
決めるべき道を迷い、ただ惑う姿など見られたくはなかった。
夢と現の境が壊れたのではないかなどと、愚かな妄想が過ぎる。
その愚かさを嗜めるかのように俺の脇を抜けて転がっていったボールの立てていた音が、衣擦れの音に変わった。
次いで、一瞬の静寂。
それを破ったのは、俺の声でも柔らかな声でもなく、頭上を走る列車の轟音。
その音に体を微かに震わせ、尚も逃避に走りたがる思考を戻された。
それでも、振り返るまでの僅かな躊躇いまでは払拭できず、目を軽く閉ざし、深く息を吸い込む。
ゆっくりと瞼を上げながら体を反した。その間に近付いていた彼の息遣いを背中に感じながら。
「大和、部長……」
「お久しぶりですね。手塚君」
振り向けば、丸い色付き眼鏡に無精髭、長い前髪を無造作にヘアバンドで纏めた大和部長が目の前にいた。
柔らかな言葉と穏やかな笑顔を俺に向けてくれる、変わらない彼の姿に安堵が広がる。
変わったのは、羽織っている物が中等部のレギュラージャージから高等部の物になったことと、目線の高さが近くなったことだけ。
それが、胸に蟠る惑いを払い、頬に入った力を緩めさせる。
そのまま口の端を小さく上げたつもりだが、笑みを顔に浮かべることができたのかはわからなかった。
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