隙間の見せた我欲 木手
ただ、目の前にある光景に体を震わせながら立ち尽くす。
自らに強制する瞬きで心を裏切る激しい熱を何度も振り払う。
逃げ出したいのに足は根が生えたように動かない。
細く開いた窓から突き刺すように視界を奪う蠢く凄艶が俺をその場に縛り付けていた。
日の落ちた学校へと足を向けた理由は級友に借りたゲームソフトを部室のロッカーに忘れたことを思い出したからだった。
目の裏にチラつく怒り心頭な友の顔。
今日は週に一度の部室解放だ。
扉が開きっぱなしの部室ではロッカーの華奢なドアなど幼女のスカート並みの防御力でしかない。
思えば運動部の宿命である窒息寸前の饐えた臭気が充満した部室に一番最初に限界を唱えたのは主将の木手だった。
いや、主将という立場になるのを待っていたのかもしれない。
それ以来、週一で部室解放というルールができた。
その為に今日も紙袋をいっぱいにして俺的宝物という名のゴミの山を持ち帰っている。
何故あの時にロッカーを振り返らなかったのかを悔やみながら部室へと向かう。
俯きながら『弁償』の字を重く圧し掛からせて明るい月光の下をトボトボと歩いていると部室の影が視界に入った。
顔を上げたと同時に異常に気付く。
解放されているはずの扉が閉ざされているのが横から受ける月明かりでハッキリと見えた。
あの時、薄く開いた窓なんて気付かずに帰っていれば……いや、忘れ物なんて思い出さなければよかったのだ。
そうすれば、俺の目の前に広がる絶望にも似た欲望の象徴を知らなくて済んだのに。
月明かりが映すのは嫌悪に覆われた美しい光景。
光を弾き返す濡れた素肌。
背を艶かしく逸らすしなやかな獣。
上を向いた胸に尖る小さな朱が官能を引き出す。
汗で額に張り付く黒い一房。
眼鏡のレンズを伝う透明な雫に穢された淑女の幻影を纏う。
息を呑み熱を集める下半身を瞬きで散らしながら緩いウエーブの髪を耳に掛ける。
手はそのまま無意識に帽子の鍔を後へと回し去るはずだった足は一歩近づいた。
トランポリンで跳ねる少女のように妙な規則性を持ちながら上下する体。
仰のいた顔に見せる表情は聞こえない僅かな歯の軋みを感じさせる。
揺れていた体を止め下にある腹に埋めるように手を乗せる。
俯かせた顔には既に痛みも苦悩も名残は欠片すらも見出せない。
挑発的な強気の笑みだけを相手に向ける姿に胸が締め上げられるようだ。
気付きたくなかった紅≠ェ締め上げる力を更に強くした。
たぷたぷと揺れる頬の方からは美しい体が盾となり決して見えない。
彼等を繋ぐ肉の刀が真新しい紅に染められている。
不意に巨体が肉を震わせた。
続き、美しい体がしなやかな背のラインを作る。
暫くの艶やかな静止。
背を逸らしていた体が飛んでいた羽根のようにふわりと巨体の腹へと倒れ込んでいく。
力の抜けた表情は見たことがないほどに柔らかな笑みを浮かべている。
美しいとは到底言えないはずの呆けたような顔でしかないその表情が今まで見た木手の表情で一番輝いて見えた。
温い微睡みのような余韻が満ちた中で体を起こした木手は今の表情が嘘のように目を吊り上げ引き締めた口元に冷笑を刷き口を開く。
「目を閉じてなさいね」
冷たい命令に素直に目を閉じた相手へ信用すらも与えないのか手近なシャツを顔へと掛ける。
漸く安堵したのか体を離し月光だけが映すはずの姿を立たせた。
再び座り込んだのは仰向けに寝そべる体の足先へと小さく二歩ほど体を移してからだった。
体を屈め震える唇を肉を染める自らの紅へと近付けていく。
痛みにか嫌悪にかはわからないが眉を寄せ目尻に雫を湛えながら舌を這わせている。
床に落ちた紅へは指先を伸ばし掬い取っていた。
その指をハンカチで拭った後は俺の視界に紅は一箇所を残すだけとなり木手が服を身に着けたことで消えた。
「もう良いですよ。ほら、さっさと服を着なさいな」
言葉と共に投げられた服を身に着けている慧クンに僅かに緩めた頬を見せながら木手が続けて口を開く。
「約束は果したよ。コレで諦めなさいね」
「……やすんじゆぅさん」
ボタンを掛けていた慧クンの手がその言葉に止まり中途のままバッグを掴む。
酷く真剣な目で諦められないと告げ扉を開けて月光と入れ違いに出て行った。
木手の視線がそれをいつまでも追っている。
その目は喜びとそれに反した感情で揺れているようだった。
大きく息を吐いて隙間のドラマに奪われていた視線を引き剥がし窓から離れ開かれた扉へとゆっくりと体を移す。
「馬鹿だね……」
「フラーは木手だばぁ?ゴム着けるのはマナーじゃねーの?」
月光と木手の視線の間に立った瞬間に慧クンへとも自嘲とも取れる響きが耳に沁みた。
木手の体を影で覆いながら全てを見ていたことを告げる。
そんな思いをしてまでもと求めているのだろう?と暗に語りかけながら。
「一度きりなのにマナーと引き換えにはしたくないでしょ。
悪いけど病気までは気にしてあげないしね」
実際は兎も角として外見上は驚く様子もなく返った言葉は答えをあえて変えていた。
隠した言葉をわかっていると告げながら常識と現実だけに返す木手の冷静さが俺の激昂を呼ぶ。
「くぬフラーっ!そんな事言っちょーんじゃねぇさー!」
罵倒の言葉が二人残った部室に響く。
慧クンは踏まれても蹴られても木手がいいと言っている。
常識も道徳も未来もいらないと言っているのになぜ悩まなくてはならないのか。
木手本人の気持ちすら確定しているのに。
叫びながら突きつけた指に木手のそれが絡む。
「甲斐クンの言いたい事はわかってるけどね。
でも、一生俺のモノになれなんて言えないでしょ」
軋むほどにキツク握られた指がその心を感じ取り返す言葉が出ない。
俺もわかってはいる。
思うからこそ先のない関係に共に沈む夢を見せる事ができない。
冷めた態度とは裏腹に愛情の深い男だ。
押さえ込まれた長い時すらもただ上を目指し続けられるだけの執念も持っている。
それが執着に繋がり一度心まで繋いだなら手離せないだろうと考えている事もわかってはいた。
それでも、俺は笑顔が痛い二人なんか見たくはない。
痛みを受けている木手を見たくはない。
「慧クンなら『なりたい』って言うさぁ」
ロッカーを開けて取り出したジャージの上衣を投げかける。
動かない木手に近付きそのジャージを腰に掛けるように回した。
「いらーすん。洗って返ーせよ」
貸すから洗って返せと下を向いたままで戯言を掛け比嘉ジャージが隠した色濃くなったズボンの尻を思う。
プライドの高い男が俺の前で二度目の無様を晒した。
一度目はあの手塚との試合。
あれは俺達の為だった。俺達の所為で勝利だけを見させた。
今は一人の男の前で上に立つ為だけに目尻に露を湛える。
返される言葉の含む湿度を知りたくなくて音を聞く前に顔を上げずに踵を返す。
後は一切振り向かずに駆け足で部室から離れた。
見たくなかった。
プライドの高い男が見せる脆さを。
誰の為に湛えた雫であるのかを。
堪えているのが痛みだけではないことを。
見せたくなかった。
二人の幸せを願う心に反した涙を決して見せてはならなかった。
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