見据えた幸福の到達点  乾


「…いッ……あ、……かい、……はっ………あ……や、やめッ………」

体の下で、逃げるように藻掻いている。
俺より10p以上も高い背と、ランナーのような細身の筋肉を持った先輩が。

「……ぅあ、……たの、む………ぅ、くッ…………かいっ、ど……」

伸ばした腕はベッドの柵を掴み、思うままに動かないのだろう体を逃がそうとしている。その腕を助けようとしているのだろう蹴り足は、先に腰の下に枕を詰め込んだ所為で力が入らないらしい。
撓らせた背が、艶かしい。くねらせる腰の動きが、誘っている。

「止めま、せん。アンタは、俺の……、俺だけのモノに、なるんだ、よッ!」

合間に抜ける息が熱い。腰の動きは意思を超えて暴走する。
一歩離れた視点に立てるのなら、止められる行為のはずだ。これは紛れもない強姦で、相手は一つ上の男。ましてデカイ男が喘ぐ様など、本来は性欲を感じられるものではないのだから。
それでも、俺にはどんな先輩でもキレイに見えるんだとの確信がある。いつの間にか掛けられた恋愛というフィルターが、この頭の良い先輩の大柄な体を欲望の対象としてしまったから。

ガシャッと高い音が立つ。
力の入った先輩の腕が、ベッド脇の棚上に乗せていた自身の眼鏡を叩き落していた。
一瞬の静寂。蠢く体を止めた先輩は、眼鏡を探して視線を彷徨わせているようだ。
俺もまた、動かしていた腰を止めた。フレームの歪みなら俺の財布でも何とかなる。だが、先輩のレンズは小遣いで弁償できるような代物ではない。
思い返すのは、先の六月二日に眼鏡屋で見た値札。そして、その値札を見るまでの照れ臭さの混じる喜びと、財布との兼ね合いがつかなかった落胆。
分厚いレンズが隠している先輩の素顔を、誰にも見せたくない。だからこそ、その盾を俺が買いたかった。俺があげた物で、隠して欲しかった。
思い出した独占欲は欲望を煽るスパイス。膨れ上がった熱に、力を与える。
硝子の割れた音はしなかった。だから、そのまま腰の動きを再開した。



欲を解放した瞬間の忘我。荒い息の音だけが部屋に流れている。
触れ合う肌と肌。まだ繋がったままの体。先刻の締め上げるようなキツさはなく、柔らかに包み込まれている。
熱さではなく、温かさ。欲ではなく、溶け合えるかのような幸福感。揺り篭で眠るかのような安らかさ。
それも、閉ざしていた目を開けるまでの短い時間だけのことだった。一時で欲へと戻される。
視界に映るのは、汗に濡れた滑らかな背中。
何も知らなければモヤシ野郎としか思えない白い皮膚が、先輩のものだと言うだけで酷く惹かれる。
翼の名残へと唇を寄せ、舌で形を辿っていく。先輩が小さく背を震わせた瞬間、歯に当たった骨の硬さ。薄く隙間を作ることで視界を広げれば、傷に成り掛けの赤味ができていた。
所有の証と言うことは許されないだろうか。だが、この人が俺のものになったように見えて嬉しい。
愛おしい赤へと舌を這わせ、背中を抱き込むように腕を回せば、再び欲が顔を出す。
力を取り戻した熱には、キツイ収縮が応えた。それなのに、小さく頭を振る先輩の体は、俺から逃げようと緩慢に動いている。
視線を上げたとき、見えてしまった。先輩が伸ばしている腕の先が。
その延長線上にあるのは、微笑む二人の少年。
この人は救いを求めている。俺から逃げたいと望み、あの人に救いを求めている。
俺を支配していく苛立ち。俺のものにしたいと思うほどの相手が、こんなにも憎い。
そして、それを増幅させるものが視界に入った。眼鏡が置いてあった僅か先に、この人の携帯電話がある。

そんなにも俺を拒絶するなら、壊れてしまえばいい。
あの人との関係も、この人の心も。
本の数十分前には、優しく穏やかな空間だった俺と先輩との繋がりのように。
抜け殻になったこの人なら、俺のモノにできるかもしれないから。


「そんなに、あの人がいいんスか? だったら……」

言葉を切り、体を起こした。そのまま、伸ばした腕で小さな機械を引き寄せる。
畳まれていた携帯を開き、幾つかのボタンを押していけば、すぐに目当ての番号を拾えた。
ああ、やっぱりそういうことなんじゃねぇか。そう、思った。
それでも、履歴の一番上に残っていた名前は俺の感情を逆撫でしていく。

「……な、にを…………」

張り付いた喉から絞り出したような声を出した先輩が、体を振り向かせて言葉を途切れさせた。
大きく開かれた目。
先輩の時間が、視界に入れた携帯の所為で瞬時に止まったことを教えている。

「あ……い、イヤだ……止めろ、海堂!」

動き出した時間。痛みと悲しみに染まった声が叫ぶ。
ぐったりとしていた体のどこにそんな力が残っていたのか、叫びと同時に先輩は俺の手から携帯を叩き落としていた。
通話を押そうとした指が宙に浮いている。

(お、俺は……今、何をしようとした? この手で、先輩を……)

今、確かに本気だった。俺は……あの人をこの場に呼ぼうと、本気で思ったのだ。
そして、この人を壊してしまおうと……
湧き上がった破壊衝動に、駄目だと制止を掛けることもできなかった。
後悔は、一つのものを返す。今、俺が何をしているのかを判断するだけの冷静さを。
俺は、先輩を強姦した。データを操る頭脳と面倒見の良さで、優しく接しながら導いてくれた先輩を。その、世話にもなった乾先輩を組み敷き、欲望を叩きつけ、更には……

それでも、耳に残る声。先輩が誰よりも思うあの人への羨みが、憎悪にも似た独占欲を煽っていく。
漸く駄目だと叫んだ制止の声は、台風のように吹き荒れる感情に掻き消された。

「アンタは、俺だけを見てればいい」

俺以外を考えられなくなるまで欲の楔を打ち込んでやる、と。
激しく動かした腰に連動し、粘性の水音が立つ。
それが一時の占有の快楽を引き摺り出し、戻れはしない深みにまで俺を追い立てていた。



既に何度目かも数えてはいなかった。
ぐったりと沈み込む体を反し、抱き込むように腕を回す。暫くの間、ただ先輩の鼓動を聞いていた。
柔らかな甘い時間が、錯覚を起こさせる。この行為は、互いの思いが結ばれた結果なのだと。
だが、それはすぐに夢と消えた。

「かい、ど………、もう、……無理、だ…………休ませ……」

小さく身動いだ先輩の掠れた声が、あくまでも俺を拒否する言葉を連ねたから。
醒めたあとは、現実が圧し掛かるだけ。そして、その現実は欲望を高める。
誰にも渡すものか、誰とも触れ合えないほどに俺を刻み込んでる、と。

欲は限りない。それでも、限界を超えつつある局部が痛みを発している。
それを宥めるまで、ゆっくりと先輩を高めよう。
繋がることばかり考えていた頭に、漸く少しの余裕ができていた。

今まで触れなかった胸へと口を寄せ、硬さを持った乳首を啄ばむ。
ビクビクと震えてくれる先輩の体。恐怖からなのか快楽からなのかはわからなくても。
転がすように舐めれば、舌に痺れるような快楽が走る。
その度に聞こえる、小さく息を呑む音。俺の肩を包んでいる先輩の掌が、受け入れてくれたようで嬉しい。たとえ、それが抵抗の成れの果てでも。
唇で鼓動の跳ねを感じながら、背に回した片腕。指先を窪んだ背筋に何度も滑らせれば、唇が楽しみを知る。
逃げようとすれば俺に押し付けることになる胸。強請るかのような仕種に、仮初の喜びを感じた。
背で遊ばせていた腕を腰に固定させ、もう一方を幾度も頂点を得た欲の象徴へと伸ばしていく。

「感じて、るんだ。なら、もっと、いいっスよね?」

先輩自身の熱の発露に濡れた欲は、硬度を以って俺にそれを教えてくれていた。
滑りを広げるように上下に撫で摩れば、緩く左右に顔を振る。俺を否定するかのように。
それが、許せなかった。
滑らかな腰と熱い欲から引き上げた両腕を先輩の顔の脇へとつき、体を起こす。開かせた足の間へと体を入れ、両の膝裏へと腕を差し入れるように足を抱えた。

「ヤめッ、……も………む、り………」

震えるだけで抵抗のない体。それでも、唇は切れ切れに制止の言葉を紡ぐ。
そんなにも俺を認めたくないのか。それとも、あの人を思っているからなのか。
わからない。だが、それがどっちだとしても、同じだ。
煮え滾るような苛立ちのままに、先輩の体を貫いていた。

「ッ………ぅ……」

もう声も出せないほどの嫌悪を感じているのだろうか。
湧いてくる怒りが、奥へ奥へと入り込ませていく。
それで先輩を手にできるとでもいうように。
荒く、腰をグラインドさせる。何度も、叩きつけるように。
俺のものだと呟きながら。




静寂が部屋を支配している。
もう一滴の欲も発せないほどに、先輩の体を貪った。
聞いたのは、止めろと嫌だと無理だとだけ。
結局は、ただの一度も受け入れる言葉はなかった。
当然だ。俺は欲望のままにこの人を犯したのだから。
それでも、今も先輩はこの腕の中にいる。
どうして突き放さないのか。そして、どうして俺はまだ……

「乾先輩……俺は、アンタを誰にも渡さねぇ!」

熱い体を抱き締めたまま、思いのままに叫んだ。
本当は、一刻も早く謝るべきだ。わかっていても、膨らみきった独占欲が制御できない。

『止めろ、海堂!』

あの悲痛なほどの声。あの人を思う先輩の心への怒りを、触れ合う肌ですら忘れさせてはくれなかった。
先輩の息が胸を擽る。聞こえていた浅く荒かった呼吸音が、深く息を吸い込む音に変わっていく。胸に僅かな抵抗があり、僅かに緩めた腕からするりと抜け出された。

「ふぅ……、何でこんなに気が短いかな? 行動を起こす前に、まずは話し合う。コレが基本だよ」

深い溜息を一つ落とし、視線を合わせながら枯れてしまった声で先輩が言う。口元には柔らかな笑みすら浮かんでいる。
なぜ、この状況で笑えるのか。自分を散々に強姦した男が、反省の言葉もなく開き直ってみせたというのに。

「たぶん、この先も蓮二を忘れることはできない。幼馴染で大切な友人でもあるんだから、それはどうにもならないんだ」

痛みを覚えるほどにハッキリと告げられた、先輩のあの人への気持ち。ああ、断罪はこれからだったのかと、目を瞑って俯き、次の声を待つ。

「……でもね、今の俺は海堂のことが好きなんだよ? だから、渡すも渡さないもないじゃないか。そうは思えないかい?」

だが、続けられたのは衝撃的な言葉だった。しかも、手を差し出すような言葉までもが降ってくる。
顔を上げ見開いた目には、同意を求めるかのように小さく首を傾げる先輩が映っていた。
驚愕に返せずにいる俺の答えは、苦笑で受け止められて消えた。小さな頷きは全てわかっていると言っているようだったから。

「まあ、予定は狂ったけど、海堂の体を思えばコレはコレでよかった、かな。こんなにキツイとは思わなかったからね。それと、加減という言葉だけは覚えてほしいな。俺の体力は海堂と違って底無しじゃないんだ」

笑みから苦味を消しながらそう続けた先輩は、腰へと手を当てベッドから足を下ろしていく。
緩慢な動作。まっすぐには伸ばせないのか、腰を屈め、ベッドの柵に手をついている。その手も、床についた足も、小刻みに震えていた。
見れば唇も赤く腫れており、行為の最中に噛み締めたのだろうと気付かされる。
それほどの自身の辛さを軽く口にしながら、苦痛を受けたのが俺じゃないことをよかったと言う先輩に目頭が熱くなっていく。
堪えようと目を瞬けば、目尻に流れ込む汗。そして、それがもう一つのことを気付かせた。
耳にしたことのある、級友たちのくだらない自慢話。そこに必ず出てくるアレがない。
背中にも肩にも胸にも、その痛みがなかった。これだけ流れた汗に沁みることもないのだから、傷があるとは考えられない。
無理矢理に体を押し開かれたというのに、抵抗しながらも俺を傷付けないように気遣っていたのだと知る。

「……すみませ……ッした!」

鼻の奥が沁みたように痛む。それを堪えて掠れた声で叫び、深く頭を下げた。
どうしてこんなにも俺を思ってくれる人を傷付けたのか。
申し訳なさに頭を上げられず、床に放られたままのシャツに視線が流れる。引き裂くように剥ぎ取った所為で、襟元のボタンが緩んでいた。俺が何をしたのかを突きつけるかのように。
湧き上がり掛けている涙は堪えた。加害者である俺に、泣く権利などない。
唇を噛み締めたまま息を整えていると、頭上からフッと息の抜ける音がした。
息で小さく笑ったのだろう。恐らく、口元の笑みも浮かべたままのはずだ。
そして、温かさに包まれた体。精液と汗と唾液とで濡れた互いの体が、隙間なく触れ合っている。

どうして、許せるのだろう。
どうして、抱き締めることができるのだろう。
その優しさも、その思いも、全てを裏切ったも同然の俺を。


「一つ、成長したってことかな? 自らの非を認めて謝ることができるなら、一回り大きな『明日の自分』が得られるからね。テニスと同じだ。ゲームセットまでの階段は長く続いているだろう? 上るのは、一段ずつでいいんだよ。ゆっくりと、噛み締めながら、ね」

先輩の比喩はいつもわからない。でも、きっと、長く続かせたい『階段』は俺たちの関係。
テニスなら、一ポイントずつを大事にしていく。確実に、自分の持てる力を発揮していく。試合を悔いのないものにしたいから。
同じように、一段、また一段と、上っていけばいいのだろう。焦りに転がり落ちそうになった俺を支え、引き上げてくれた先輩と共に。

俺なりに理解して、小さく「はい」と言った瞬間に、涙が頬を伝った。
それを、先輩の震える指が拭ってくれている。
許されて、堪えることを忘れてしまった。
それでも、そんな弱さや甘えをも許し、いつものように導いてくれるだろう。


先輩は、受け入れてくれたのだから。
醜い独占欲も、台風のような激情も。
そして、未来を含めた俺の全てをも。





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