空に届かない雲の色


暑い……
アスファルトの上でコンクリートの建物が揺れる。ねっとりと纏わりつく熱い空気が、視界に映る絵を歪ませる。
煩く耳を打つ蝉の声。短い華やぎを懸けた、彼らの命の音だ。
家路を急ぐ足が縺れる。バランスを崩し、踏鞴を踏む。
持ち堪えた体を起こせば、額からの汗が目尻を通っていく。
思わず強く瞼を落とす。

そして、目を開けた。


一瞬だった。
本当に、キツい瞬きを一回しただけの瞬間の空白だったんだ。

俺を取り巻く全てが変わっていた。
世界がくるりと反転したかのように。


「ゆ、め……なのか?」

だが、どっちがだ?
今の状況がなのか、幾度も経験した真夏の帰り道がなのか。
流れていく知らない声が、作り物の世界に入り込んだかのような錯覚を起こさせる。
だが、夢であってくれと願うのはただの逃避だった。それでは、何も変わらない。現実を見つめ、行動を起こさなければならない。

どうすればいいのか、どうしたいのか。
決まっている。帰るんだ、ここから。
帰ったらランニングと柔軟と素振りと、……やることは多い。
あの人からのメニューだけじゃ、追いつけないと思い知らされた。
俺はまだ、借りを返してない。帰るんだ、青学に。みんなと、あの人と。

そう自分に言い聞かせても、体に汗が滲んでいく。現状を把握しきれずに、曖昧な恐怖だけが漂っている。
薄汚れた天井。横へ視線を移せば、昔は白かっただろうカーテンが風に揺れている。
体を起こし、寝かされていたのはベッドだと今更ながらに気付く。見回せば、全部で六床。各ベッドの脇にある棚。俺の隣のものには、バッグが乗っている。
恐らくは、病院の大部屋だ。
残る五床にも、誰かが寝ていた形跡がある。埃の状況が、それが最近のことだと教えている。


「さがさ、ねぇと、……な」

起きる前の記憶は幾つかの顔と繋がっていた。流れた声も明確に告げていた。ここに誰がいるのかを。
だが、頼ろうというわけではない。守るために、だ。この映画のような世界から。
スクリーンの外へ抜け出す術を見つけ出せるのは、きっとあの人だけだ。
頭脳では頼らざるを得ないのだから、それ以外の場面では俺が守ってみせる。

ベッドから降りた体を軽く動かす。腰を捻り、肩を回す。足を屈伸させ、ゆっくりと深呼吸。
バッグを手に取り、中を検める。食料品や時計、薄い本にペン。そして、鈍い黒の光。さして重くもないそれは、用途を理解した瞬間に取り落としそうな重量を感じた。

「これで、……どうしろってんだッ!」


決して甘くはない状況を突きつけられる。これが現実だというのか。
口を衝いた叫びは室内に反響した。それが今は一人きりなのだと自覚させる。そして、一人でいるのは恐らく自分だけではないのだ。
最低限の把握をと、銃と入れ替えに薄い本を取り出す。
ページを捲れば怒りに目の前が赤くなるような言葉ばかりが並べられており、平静を保つためには何度も深く息を吸い込まなければならなかった。


病院を出て、走り出す。
どこにいるのかなんて、わかるわけがない。
ただ、走る。それでいい。
きっと先輩は見つけてくれる。あの人の頭に広げられている地図には、俺の行動が全て書き込まれているのだから。



汗がジャージにまで滲み始めたころ、一株の低木の向こうに人影が見えた。
俺とは違い、制服を着ている。
近付くことに躊躇はなかった。
キラリと、高い位置にある顔が光ったからだ。
誰かを確信していた。そして、目の前まで近付いたときには、その顔に浮かんでいた笑みに一瞬の安堵も覚えた。

視界が揺れるような感覚があった。
探していた相手との、喜ぶべき再会だったというのに。

首輪を外せると聞き、喜びと尊敬の念を抱いたんだ。
何かを取り出そうとした先輩が僅かに体を屈め、顔が俺の視点の下になるまでは。
普段は見えない目、その色が眼鏡の隙間から見えた。
屈んだ拍子の一瞬の出来事にすぎない。そんな気がしただけかもしれない。
だが、気付いてしまった。
先輩はいつもと変わらない。大石先輩の名が呼ばれたというのに、いつもと同じように笑っている。
気付かなければよかったのか?
心の目を塞ぎ、気付いてないと言い聞かせればいいのか?
誰よりも信頼している相手だからこそ、その光景に違和感を覚えずにはいられない。人が思うより情が深く、冷静の奥にある情熱が誰より激しい人だと知っているから。
そして、さっき見てしまった目の色が、変わらないからこそ異質なその笑顔に絡まり、雁字搦めにしていく。


諦念は深く沁み込んでいった。試合では一度も感じたことのない、重く暗い溜息を含んだ感情が。
何ができるというのか。抜け出す術も見つけられず、誰かを手に掛けることもできない俺に。



ゆっくりと上を向く。喉を晒し、その手を待った。
『信じない』というだけのことができない。信じているとは決して言えないのに。次の瞬間には死が待つのだと感じているというのに。

先輩なら首輪を外すことができる。そして、スクリーンの外へ導くことも。

そう、いつかは。
それが今ではないというだけだ。


視界が空を映す。恐ろしいほどにクリアな青だ。
伸ばされる手は見ずに、ただ青を見つめる。睨み据えるように、強く。

恐らく、目に映された色は絶望に似ていた。
探していた相手の瞳に見た色と同じ、深い狂気の闇に似ていた。



雲が風に乗り、流れていく。
カチリと、小さな音が首から鳴った。






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