触れ得た糸なき衣


俺に足りなかったのは、何だろう。
目の前まで、来てたはずなんだ。

ああ、今、テニスがしたいかも。
既に意識も記憶もほとんど壊れているのに。
湧き上がるような感覚が、コートの空気を求めてる。

なんだ、そっか。こんなにテニスが好きだったんだ。
勝ちたいだけだと思ってた。負けたくないだけだと思ってた。
楽しいのは、勝った瞬間だと思ってたんだ。

テニスって、楽しかったんだ。




目覚めて最初に見たのは、桃先輩の青褪めた横顔だった。
呟くような声に首を傾げる。
『嘘だろ』って、何が?
いつもは無駄に煩いのに、震えた小さな声。たぶん……恐怖、かな?

「何か、……」

体を起こしながらの問い掛けは、自分の異変に気付いて止めた。
ベッドの代わりは雑草、枕の代わりは見慣れないバッグ。
見回した景色に見覚えはなく、動かした首に違和感。
左手を首に持っていけば、硬いものが嵌っている。

「何、これ」

嫌な予感。
とんでもないことが、自分の身に起こっている気がしてならない。

「首輪。気を付けろよ。爆発するらしいぜ」

答えは桃先輩がくれた。いつも通りの声音で、引き攣った笑顔で、はっきりと。
でも、それが俺に付けられている理由がわからない。

「何それ?」
「バトルロワイアル、だってさ」

二つ目の答えも明瞭。
でも、それが何なのかがわからない。

「放送が入ったんだ。お前はずっと寝てたけど。ソレ、見とけよ。さっき俺も目を通したから」

微かに震える指で『ソレ』と示されたのは、桃先輩の脇に落ちていた冊子だった。



「で、桃先輩はどうすんの?」

冊子を全部読んで、内容を理解した。
自分がどうしたいかは意外とあっさり決まった。
問題は、目の前の先輩がどう動くのか。

「……後輩を見殺しには、できねーだろ?」

溜息を吐いても、たぶん場違いじゃない。
どう考えても状況と合ってない発言だった。
部活での関係を持ち出すような問題じゃないんだし。
人の命は天秤に乗せられるものではないはずだから。
それに……

「でも、俺は帰る気ないんだけど」


ルールを理解した後、まず考えたのは、俺に人が殺せるかということ。
死なないために、先輩たちを殺せるかということ。
相手が知らない人なら、もしかしたら答えは違ってたかもしれない。

「先輩たちを殺して帰ったら、俺は俺じゃなくなる気がするんだよね」

上を目指すことなんてできない。
テニスから逃げて、二度と日本には帰らないよ。


「越前は、生きたいとは思わねーのかよ」

吐き捨てるような声。らしくないね、桃先輩。

「生きたいに決まってるじゃん。でも、死んでないだけってのは意味ないんじゃないの?」

生きられるなら、帰りたい。
でも『死ぬのがヤだ』じゃ理由になれない。
体が生きてるだけじゃ、俺じゃない。


「……俺が、代わってやる。そう、言ってもか?」

小さく唇が震えてた。代わるってのは、桃先輩が殺すってことみたいだね。


「そんなのでいいなら、最初から言ってるよ。桃先輩のことはわかってんだし」

だから、笑い飛ばして言った。

「一緒に、行かない? 俺は俺のまま、桃先輩も桃先輩のままで」

どこにかなんて聞かないでよね。
立ち上がって歩き出す先は、深い森の中。
木陰で隠れながら、少しだけ楽しい夢を見よう。


入っていたナイフで邪魔な草を刈りながら歩く。
後からは足音が聞こえてる。挑発するように笑って、振り返った。

「手、繋いであげたほうがいい?」

怖いんじゃないの? なんて付け足せば、返ってくる答えは決まってる。
生意気とか、もう言われ慣れてるよ。でも、口を尖らせて見せれば、桃先輩の顔にはいつもの
笑顔が戻ってた。
安心した。最後の瞬間まで、俺は俺でいたいから。桃先輩にもいつも通りでいて欲しいから。

前に向き直る途中に、何かがキラリと反射した。
目を細めて、その色に気づく。腕を伸ばして、隣の体を引き寄せた。
見ないで欲しかったから。頭が紅く染まる寸前の一瞬でさえも。
胸に、鋭い熱さ。そのまま、喉へも。


倒れる瞬間にどっちの眼鏡なんだろうなんて考えたけど、やっぱどっちでもいいや。
それが、アンタたちの選んだことなら応援するから。



ああ、テニスしたいな。
あの青学のコートで。先輩たちと。
そう、荒井先輩でもいいし、もうこの際だから堀尾でも竜崎でもいい。

テニス、したいんでしょ? どっちかわからないアンタも……






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